京都に恋する。ちょっと暮らすみたいに旅する。

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こんにちは。
「京都に恋する。」ブログ管理人の福こです。
京都が好き、旅が好き、旅先では街を歩くのが好きです。
私の京都の楽しみ方は、路地に吸い込まれることから始まります。

観光地から一歩外れた、車一台通れるくらいの細い道、玄関ドアの上の祀られた祇園祭の粽
古い表札、玄関先に置かれた植木鉢、半分開いた格子戸の向こうの気配。

派手さはないけれど<毎日の積み重ねが滲み出る風景に足が止まります
「暮らしが続いている京都」にどうしようもなく惹かれてしまいます。有名な寺社も好きですが心に残るのは、帰り道に偶然通った裏道や観光とは無関係な住宅街の一角だったりします。
急がず、遠回りをして路地、の奥で立ち止まる。
そんな寄り道ばかりの歩き方が、私なりの京都偏愛です

このブログでは、ガイドブックには載らない京都の路地や生活の匂い
歩いて見つけた小さな風景をエッセイのように綴っていきます。

華やかな京都より
静かに息づく京都が好きな方へ
一緒に覗いてみてください。

京都は、何度訪れてもすべてを見せてはくれない奥深い都。
旅の途中でふと足を止め、迷い込んだ路地、忘れられない光の色、言葉を交わした誰かの横顔。観光地を外れた先に、記憶にだけ残る風景や、人の気配が静かに息づいています。ガイドブックには載らない京都の風景や、人びとの横顔を、旅の記憶とともに紹介していきます。このブログでは、そんな断片的な記憶を拾い集めるように、実際に歩いた京都の風景を綴っていきます。ときには、京都を舞台にした物語やエッセイも。
知っているはずの京都が、少しだけ違って見える。そんな時間を、ここで共有できたらうれしいです。
いつか京都で暮らしてみたいと気持ちを持ちつつも、外から京都を見つめ、思いを寄せる。何年経っても心が向かう場所。たくさんの人々が京都に恋焦がれる魅力って、なんなんだろう。魅力を上げ始めればキリがないくらいたくさんの要素が浮かんでくるそんな街です。

観光ではない、消費でもない。
ただ、京都を偏愛するまなざしで見つめた世界へ。

初めての京都

 実質的にはじめての京都は、中学生の頃にさかのぼります。中学生の修学旅行でした。当時も今も団体行動が大の苦手な私には、いい思い出になるような出来事ではなく、むしろ深く記憶に残っているのは退屈と苦痛の旅でした。そんなことに囚われて、京都のまちを正直何も見ていなかった旅でした。その後、高校卒業後アメリカへ渡ることになり、その出発前に「日本らしい場所へ行っておきたい」と思い立ち、京都へ一人旅をしました。    

 それが、私にとっての本質的な“はじめての京都”でした。ほとんど、誰とも話さず、観光ガイドも見ず、ただ朝の冷たい空気の中を、静かに歩いていた記憶。
あのときから私は、たぶん京都に恋していたのだと思います。

 京都ふたたび

それからの長い時間が流れ、仕事や生活に追われ、「京都」は日々の中から遠のいてしまっていました。そんなあるとき、偶然観たドラマ──
NHK BSプレミアムドラマ「京都人の密かな愉しみ」に心を奪われ、すっかり忘れていた気持ちが、ふたたび目を覚ましたのです。それ以来、一年に一回は、京都を訪れるようになりました。
京都の観光地だけではなく、京都の暮らしの気配にもふれたくて足の向くまま、気の向くまま、路地を歩き、町を眺め、言葉を探しています。

 ちょっと暮らすように旅するということ

それからの長い時間、仕事や生活に追われ、
「京都」は日々の中から遠のいてしまっていました。そんなあるとき、偶然観たドラマ──
「京都人の密かな愉しみ」に心を奪われ、すっかり忘れていた気持ちが、ふたたび目を覚ましたのです。それ以来、一年に一回は、京都を訪れるようになりました。
京都の観光地だけではなく、京都の暮らしの気配にもふれたくて足の向くまま、気の向くまま、路地を歩き、町を眺め、言葉を探しています。

若葉色の着物姿の京女

いつだったか、京都を歩いているときに──
とても印象的な着物姿の女性を見かけました。

はっきりと覚えているわけではないのですが、
若葉色の着物を着ている女性だったような気がします。
新緑が映える季節、静かな通りをゆくその後ろ姿に、思わず足を止めてしまったことだけは、今でも覚えています。京都の町では、そんなふうにして、時折“息を呑むような美しさ”に出会うことがあります。観光地の華やかさとはまったく違って、日常の延長にある、ふとした瞬間の静けさ。

すれ違いざまに香る、ほのかなお香の匂い。
のれんが揺れる音。
路地裏の植木鉢にさす斜めの光。そんな何気ない場面にこそ、“京都らしさ”を感じます。若葉色という言葉は
緑でもなく、黄緑でもなく、
柔らかさと清々しさが溶け合ったような響き。若葉は、初夏の始まりを告げるもの。
成熟の手前にある、静かな可能性のようでもあって、それを身にまとう人にも、どこか“生きている途中”のような、あたたかさを感じます。

京都で見かけたあの女性も、そうでした。
決して派手ではないけれど、通り過ぎたあとに残る空気が、美しい。
年を重ねていくことの自然さや、気品のようなものが、その姿にはありました。

そういう出会いがあると、自然とその人が出てくるような物語を空想してしまいます。そういう、ふとした記憶が、ある日、ある場所での“誰か”として、静かにページの中を歩き始める、文章で綴る旅のはじまりです。

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