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📖 オリジナル小説連載
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京都・御所南。
理容院を営む祖父のもとへ、ある春、東京から孫がやって来た。
美容師であり、何かに迷う青年。さざなみと書いて、漣(れん)。
祖父の名は、トウゴロー。
京の所作と人にふれていく、小さな物語。
第9話「燻し銀と柔和」

「やっぱり、似てはるわぁ」
「何の話?」
「ゴロちゃんと漣くん、二人はよう似てはる」
「はっ? どこがや」
「もう、そない、怖い顔せんといてぇな」
「だから、どこが似てるって聞いてんねん」
「そうやなあ、例えば、カットにこだわりはるところ」
「一緒にすなっ!」
「また怖いなあ、そやかて、ゴロちゃんも基本カットだけで、仕上げようとしはるやん?」
「そんなことあるかっ、ちゃんと、パーマやカラーもしてます。だいたい、パーマとカラーはせえへんて、美容師ってどないやの、しかもその理由が自然じゃないからて、自然てなんや」
鴨川理容院の店内。バーバーチェアに座っているのは、八百屋のシロ一人。鏡越しに鋏を手にシロを睨むトウゴローが立っている。
トウゴローの剣幕に、シロが眉を寄せて困った顔をする。
「まあ、そりゃ、確かに、漣くんは、変わってはるとは思うけど。けど、ゴロちゃんもお客さんの要望がない時は、カットのみで仕上げてる」
「そんなこと……あるか…… そやったか?」
トウゴローが思いを巡らす。

「せやろ? 俺はずっとゴロちゃんを見てきてるんやで。そういう職人肌なとこがええなと思て、通ってるんや。ゴロちゃんのは燻し銀の技や」
鏡越しにシロがニッと笑う。
「燻し銀、そら、好きな言葉やわ、おおきに」
「よう知ってる……どういたしまして」
トウゴローは鋏の手を止めて、
「それにしても……そないに似てるもんかいな」
「血は争えんのや。ええやん。家族なんやし、似てくるもんやで」
止まっていた鋏が、動きだした。
「せやけど、あんな腑抜けに似てるって思うと、何や嫌やな」
「腑抜けて、自分の孫のこと、よう言わんわ」
「ほんまのことやろ?」
「否定はせえへんけどな」
そう言って、二人で笑った。
「ゴロちゃんが〝燻し銀〟なら、漣くんは〝柔和〟いう感じやね」
「柔和て。あの頭のことか」
「頭?」
「人の髪はえらい丁寧にしはるくせに、自分のはくるくるや」
「ああ、あのくるくるねぇ。ええやん、似合うてはる」
とシロがまんざらでもないという顔で頷きながら言って、
「今日は漣くん、どこまでお使いに行かはったん?」
と聞いた。
「今日はお使いやなくて、店の営業や。店のカードを置きに、今頃は『珈琲の森』さんとこで、たぶん捕まってると思うわ」
「カード、出来たんか」
シロが椅子の背もたれから起き上がった。
「やっとや、何遍も作り直しよって」
「ほお、やっと動き出したんやな。葉っぱかけた甲斐があったわ。この街へ馴染んできてるんやないの」
うれしそうに笑うシロ。
「ぜんぜん馴染んでへんわ。いつもおかしなこと言うてるし」
「ゴロちゃんは厳しいなあ。そら、元々の漣くんのキャラって言うん? それは直せるもんやないし、俺は結構好きやけどなぁ」
「腑抜けのどこがいいねん?」
「腑抜けて!そやけどこないだ、珈琲の森さんが言うてはったで」
「なんて?」
「なんや、珈琲豆の種類をピタっと言い当てたらしいわ」
「利き豆かいな」
「それだけちゃう。パンやバター、ジャムのことまで言い当ててたらしい」
「……そういえば、漣の奴、京野菜の味にも敏感なとこあるなぁ」
「なにそれ?」
シロがバーバーチェアから、身を乗り出す。
「なんや知らんけど、同じ種類の京野菜でも、作ってる土地によって、味がちゃうて、ぶつぶつ言うてたことあった」
「それ、うれしいなあ! 若い人に京野菜の違いを分かってもろてるやなんて。漣くんに〝京野菜マイスター〟とかになってもらえへんかな。どんどん、若い人にも伝えていかなあかんしな」
「本気で言うてる?」
「そやかて、当たってるんやろ?」
「まあ、確かに当たってる……のは当たってるかもな」
トウゴローが渋々納得したように言う。
「なんや、とぼけてるはるから、なんやイライラさせられるし、漣くん、空気を読んだりせえへんしなあ。京都じゃそれは御法度やから、腹の立つこともあったけど、今はなんや、ほっとする。損得でも動かへん、言葉使いも丁寧で、正直で素直や。みんな、漣くんのこと、ええ子やなぁって思い始めてるとちゃうかな。少なくとも俺はそう思ってる」
トウゴローはじっと話を聞き、ふーんといった顔をして、
「そら、おおきに、シロちゃん」
と言った。
「なんも、なんも」
シロも微笑んだ。
「あ、向かいの谷口マダムはまだ、イライラしてはるけどな」
と笑った。
「正直、谷口さんの反応が正常や思うわ」
トウゴローがそう返すと二人でまた声をあげて笑った。
その笑い声がまだ残っているうちに、店のドアがカランと鳴った。

「こんにちはあ」
秋のはしりの風のような空気とともに、シフォン生地のふんわりとした琥珀色のワンピースを着た香りが立っていた。
「おや、小川さんとこの香りさん。いらっしゃい」
トウゴローが古いレジを置いたカウンター越しに顔を上げた。バーバーチェアのシロも、振り向いた。香りは、にっこり笑顔でシロにも頭を下げた。漣がカットしたショートヘアが、彼女の楚々とした雰囲気に軽やかさが加わって、よく似合っている。
「先日は、お世話になりました」
「いやいや、何もしてません」
「いいえ、気を遣うてもろて、おおきに」
香りは柔らかく微笑んだ。
「あの、今日は、漣さんはいてはらへんのですか?」
「かんにん、今日は営業に出てます」
店内を見渡す香りに、トウゴローが言う。
「営業?……お客さんあまり来てはらへんの?」
香りが、心配そうに聞く。
「まあ、商売はそんな甘いもんとちゃいますさかい」
「とても腕のいい美容師さんやのに、難しいもんですね……ほな、私、もっと宣伝します」
香りは両拳を小さく握って、にこっと笑った。
「お気持ちだけで十分です。無理せんといて。漣自身がやらなあかんことですわ」
「いえ、そうしたいんです。漣さんのカット、魔法やから」
トウゴローが驚いて、目を丸くする。
「魔法?」
「へえ。漣さんに髪切ってもろてから、気持ちが軽うなって、毎日がちょっと楽しくなって……不思議やけど、そんな感じなんです」
鏡の中で、シロがトウゴローを見て、ニッと笑った。
「漣がちょっと不思議な奴さかいな」
とトウゴローが笑った。
「そんな、笑わんといてください。ほんまのことです」
香りが少し眉を寄せて言った。
トウゴローは、小さく何度も頷いた。
「それは冗談や…そないなふうに言ってもらえておおきに。それで今日は何か用ですか?」
「あ、へえ、これ、うちで試作してる新しいお香なんです。若い人にもお香を楽しんでもらえたらと思て」
手に持っていた小さな風呂敷を広げると、和紙に包まれたお香が並んでいる。包みを開くほどでもないのに、店の中の空気が、すっと変わった。
「へぇ、ええ香りやなあ。そやけど、なんで漣に?」
「漣さんって、本物を見分ける目ぇ、いや、鼻って言うんかな……そういう感覚、持ってはると思うんです」
「なんや、みんな似たようなこと、言うてはるな」
トウゴローが独り言のように言うと、香りの目が光って見えた。
「え?」
「いや、こっちの話や」
トウゴローが少し、首を振った。
「この間、たまたま街で会うた時に、漣さんが言うてたんです。髪と会話して、髪を切ってるって。それで、思い出したんですけど、私の髪を切ってくれはった時、不思議な感じがしてたんです」
トウゴローが小さく何度も頷きながら、
「そないなこと、言うてましたか」
と言った。
「私の髪を生かしてもらいました」
香りはうれしそうに微笑む。トウゴローが感心したような表情を浮かべた。
「生かすね……」
ちょっと何かを思いついたように、
「ほな、これはお預かっときます。漣にはワシからちゃんと伝えときますさかい」
「おおきに。そしたら、また折りを見て伺わせていただきます」
トウゴローが香りを見送って、シロが座るバーバーチェアへ戻った。
「な、言うたとおりやろ」
シロが、クロスの下から、してやったりという顔をする。
「何がや」
「みんな、思い始めてるて、言うたやろ」
それにはトウゴローは答えず、鋏を取った。仕上げまで済ませて、シロを外へ送り出す。シロの背中が角を曲がったところで、店は急に静かになった。
トウゴローはカウンターに目を落とす。そこには、丁寧に包まれた香の束。
「漣の奴……いつの間にか、人の心に染み込んでやがる」
そう呟いて、小さく笑いながら、風呂敷包みをゆっくり包み直した。
日の暮れるのが、ひと月前より早くなっている。表の光が、店の床を斜めに切っていた。
「ただいま」
「おお、おかえり」
トウゴローが顔を上げる。
「森さんとこで、お土産たくさんいただきました」
漣が両手いっぱいに包みを抱えている。
「えらい仰山やな。森さんが、全部くれはったん?」
「森さんだけじゃなくて、居合わせたお客さん、みなさんからです」
「みんなから? ……そしたら、ちゃんと誰に貰ったか覚えてるんか?」
「それが……覚えきれなくて」
「はあ?」
「でも大丈夫です。森さんの奥さんが全部メモに書いてくれました」
漣は書いてもらったメモを見せて、にっこりした。
「……ほんまに、ええ人らに恵まれてるなあ。ちゃんとお礼せなあかんで」
「はい。今度、ジャムの新作作りをお手伝いする約束をしてます」
トウゴローは安心したように、ふっと笑顔になった。
またドアがカランと鳴った。
「こんにちわぁー」
よく通る、はっきりとした声だった。漣が振り返ると、クリっとした大きな目が印象的な、マッチ棒のような細身の女性が、勢いよく入ってくるところだった。艶のある黒髪が、ふわりと揺れて、すぐにもとの形に戻る。
「いやあ、椛(はな)ちゃんやないか。ひさしぶりやな、元気やったかいな?」
トウゴローが嬉しそうに言った。
「お陰さまで元気やで。おじちゃんも元気そやね」
そう言うと、椛が手に下げていた包みを差し出す。
「おじちゃん、餅屋の餅です。今日は栗餅を持ってきたから、よかったら食べて。ウチのお父ちゃんとお母ちゃんがよろしくって言うてました」
「こりゃ、うれしいな。椛ちゃんとこのんは、並ばな買えんよってに、おおきに。お父ちゃんとお母ちゃんによろしく言うといて」

カウンターの上に、包みが2つ並んだ。
と、椛が漣に目を留めた。
「漣クン、久しぶり! 元気やった? あんまり昔と変わらへんねえ」
「えっ……」
荷物を抱えたまま、漣が固まっている。
「え……あの、お会いしたことありましたか……?」
「お会いしたことて……。幼馴染の私のこと、覚えてはらへんの?」
「幼馴染?」
「そうや」
「椛さん?」
「そうや」
「……」
「一緒に青いトマト捥いで、怒られたやん」
「青いトマト……? それ……」
左手を顎に当てて考えていた漣が、その手をぱっと離した。
「あーっ!!! おこりんぼ…… おこりんぼの椛だ」
そう、漣がいつになく興奮して言うと、
「誰が、おこりんぼやて」
と椛が間髪入れずに言葉の反撃した。
「ごっ、ごめんなさい」
反射的に首をすくめる漣。
「ふんっ、アホやな漣。何も変わってへん。成長してへんな」
椛の顔つきがぎゅっと凝縮される。
「わぁっ」
と後ずさる漣。
「その顔、やっぱりおこりんぼ椛ちゃんだ」
「何やてえ」
椛が漣に前のめりになろうとする。
「何やあ、二人でコントでもしてるんかいな」
見かねて、トウゴローが間に入った。
「そやかて、おじちゃん。漣がウチのこと、おこりんぼて、女の子に向かって言う言葉やないわ。いけずやわー」
トウゴローに助けを求める椛だったが、
「いけずて、椛ちゃん。そやけど、よう怒ってはったで、漣のこと」
「えぇっ!……そやったっけ……?」
顎に指を当てて思い返すと、弾けるように思い出した。
「そうやった、漣がいつもモタモタしてて、つい。あっ……、今もやな」
と、大きな目をさらに大きく開け、
「漣、かんにんやで。こーんな小ちゃい頃のことやないの」
手のひらを床に近づけて、ニコッとした。
「水に流してぇな」
「えっ……」
「お願い」
両手を拝むようにして、しおらしく覗き込む椛。困った顔で見返していた漣が、目をぎゅっとつぶると、
「わ、わかりました。水に流します」
「ほんまっ!おおきに。漣は心広いわ」
満面の笑みで大喜びの椛と、困ったような表情の漣を見て、トウゴローはやれやれと肩をすくめた。
「仲直りできて何よりや。ほんで、椛ちゃん、今日はどないしたん?」
「いややわあ、おじちゃん。京都に漣が来たって教えてくれへんかったやないの、しかも美容院をはじめてはったなんて。今頃になってしもたけど、漣に髪切ってもらいにきたんやないの」
「そやったなあ、かんにん。椛ちゃんに知らせてなかったな、気にかけてくれたんやなあ。なあ、漣」
とトウゴローが漣の方を見ると、
「ほな、漣。早速お願いします」
椛が漣に向き直って、言った。その勢いに圧倒された漣は、
「わ、わかりました。では、こちらへどうぞ」
バーバーチェアに腰掛けた椛に、ケープをかけて、鏡越しに椛と向き合った。
「それで、どのような髪になさいますか?」
鏡越しに聞く。
「それやねんけど、なんやおすすめの髪型にしてくれはるって聞いたんやけど」
「え……、どうして知ってるんですか?」
「風の噂で聞いたんやけど」
「風の噂……?」
「まあ、細かいことはええやないの」
椛が言う。
「わかりました。椛ちゃんは、どんな理由で髪を変えたいんですか?」
「理由?」
「そう、理由です」
「そんなん、急に言われても、とくに理由はないわ」
「理由がないなら、できません」
「えっ」
「ちゃんとした理由もなく、好きなような髪型にしてくれと言われても、困ります」
「困りますって、どない……」
「ちゃんとした理由もなく、自分の髪を切らせるものではありませんから」
「……そう言われても、理由も何も、漣に切ってもらおうと思って」
「それは、困りました」
「困ってるのはこっちの方やけど」
鏡の中で、二人が同じ顔で黙り込んでいる。
「そもそもの話ですけど、特に髪を変えたいという思いが、ないのではないですか?」
「そないなことない。前から髪を変えたいとは思てたんやし」
「そうなんですか? それはどうして?」
「どうしてって?」
「そう、どうして?」
「お二人さん」
トウゴローが、たまらず口を挟んだ。
「会話がな、なんや漫談やコントみたいになってるけど、それはいつまで続くもんやろ」
「トウゴローさん、これは大切な話なんです。理由を聞かなければ、髪を切ることなんてできません。だから、ぼくは聞いているんです」
いつになく漣の勢いに、トウゴローは黙った。鏡の中の漣の顔を、しばらく見ていた。漣は続けた。
「もうひとつ。こんなに丁寧に自分の髪を手入れしている人は、自分の髪をとても気に入ってるんだと思います。だから、切る必要なんてないと、ぼくは思います」
「え」
図星を指されたのか、椛が鏡の中で目をまるくした。
「そう言われてみたら、そうやな。椛ちゃん、いつも勢いよう入ってきて、しゃべり倒すさかいに、今までよう気づかんかったわ」
「おじちゃん、しゃべり倒すて、ひどいわぁ」
「いや、かんにん。そやけど、そないなら無理して髪切らんでも、ええんとちがうか」
今度は椛が黙る番になった。
「そうですよ。無理して切ることないです」
と漣も畳みかける。
「な、なんやの二人とも。お客を追い返すなんて、どんな商いやの。よう言わんわ」
「そういうわけやないけど、無理せんでも、ほんまに切りたなったら、いつでも来たらええ」
「そうですよ。いつでも、待ってますから」
漣とトウゴローがにっこりと笑う。
「やっぱり、血のつながりあるんやね。にっこり笑う顔が、そっくりやわ」
「え」
二人の声が、重なった。
「まあ、ええわ。今日のところは帰ります。ほな、さいなら」
勢いよく帰っていこうとする椛。
「まあ、そんな慌てんでも。せっかくやから、お茶飲んでき」
「え」
「ちょうど、お茶にしよ思てたとこや。椛ちゃんとこの栗餅もあるしな」
「ぼく、お茶淹れます」
漣が言うと、
「ほな、頼むで、今日は、一保堂さんのお茶にしよか」
二人のやり取りを見ていた椛が、
「そういうことなら、お茶飲んでいこか」
京焼の湯呑みを三つ、盆に載せて漣が戻ってくる。三人で、ウェイティングベンチに腰を下ろした。

栗餅の包みを開けながら、トウゴローがカウンターに目をやった。
「そや、漣。預かりもんがあるわ」
「なんですか」
「小川さんとこの香りさんが、昼間に見えてな。試作してはるお香やそうや。若い人にも楽しんでもらいたいから、意見を聞きたいいうて、お前に置いていかはった」
「香り?」
と椛が身を乗り出した。
「香りちゃんが来てはったん?」
「知ってはるんか」
「知ってるも何も」
椛はあっさりと言った。
「香りちゃんとは、同級生や」
「え」
漣が顔を上げた。
「同級……ということは、ぼくと年が一緒ということですか」
「そりゃ、そうやろ。ウチと漣が同い年なんやから」
「ていうか、漣。香りちゃんのこと、覚えてはらへんの?」
「え、え、どういうことですか」
「時々、遊んでた公園で、一緒になってたやないの」
漣が、黙ったまま動かなくなった。
「……ぼく、覚えていません」
「あ……それもそうやな。香りちゃんは、あの頃からお嬢さんやったし」
椛はそう言って、栗餅を口に入れた。
呆然としながら、漣もひとつ取って、一口頬ばった。栗の粒が大きくて、噛むと、ほろりと崩れた。あとから粒餡の甘みがついてくる。湯呑みを持ち上げると、茶の香りが立った。ひと口飲むと、口の中の甘さが、すうっと引いていく。
「……おいしい」
「そうやろ」
椛が、うれしそうに湯呑みを持ち直した。
カウンターの端では、香りの包みが、そのままになっていた。
漣が立って、その包みの上から、鼻を近づける。
「いい香りです」
湯呑みを持ったまま、椛が漣を見ている。
トウゴローが立って、店の灯りを点けた。
「……柔和か」
トウゴローが、呟いた。
「え?」
「なんも」
「ウチ、もうひとつ食べよっと」
椛が、また栗餅に手を伸ばした。
秋の香りがした。

第九話 了
※本作はフィクションです。登場人物・店舗名は架空のものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。物語の舞台となる地名・寺社等は実在するものもありますが、描写には作者による脚色が含まれます。
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|第1話「桜の花びらと門掃き」
|第2話「一滴からはじめれば」
|第3話「箒のリズム」
|第4話「トウゴローさん、と呼ぶ」
|第5話 「半歩、前に」
|第6話 「夏のはじまりの日に」
|第7話 「サリスベリの花の下で」
|第8話「鴨川を歩く」
📖 この物語に出てきた言葉
▶燻し銀(いぶしぎん)
銀を硫黄でいぶし、わざと黒ずませた渋い色つや。転じて、派手ではないけれど確かな腕や味わいを持つ人をいう。
▶御法度(ごはっと)
禁じられていること。もとは武家の法令を指した語。
▶いけず
京言葉で「意地悪」。とげのある言い方をされたときに、軽く咎める言葉としても使う。
▶一保堂(いっぽどう)
京都・寺町通に本店を構える日本茶の老舗。1717年(享保二年)創業。抹茶・玉露・煎茶・番茶を商う。
▶ 餅屋(もちや)
伝統的な餅菓子をつくり続けてきた、京都の和菓子店。日々のおやつであり、社寺の門前では参拝客を迎える門前菓子でもある。秋には栗餅が並ぶ。
▶秋の初風(あきのはつかぜ)
立秋を過ぎてその年、秋になって初めて吹く風のこと。まだ残る厳しい暑さのなかに、ふと混じるかすかな涼しさを捉えた、非常に繊細で風情のある日本の言葉です。
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📚 物語と響き合う、お茶と菓子の時間


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