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📖 オリジナル小説連載
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京都・御所南。
理容院を営む祖父のもとへ、ある春、東京から孫がやって来た。
美容師であり、何かに迷う青年。さざなみと書いて、漣(れん)。
祖父の名は、トウゴロー。
京の所作と人にふれていく、小さな物語。
第11話「水の糸」


落ち葉が、箒の先で小さく鳴った。
十月に入ってから、通りの木の葉が、朝ごとに少しずつ色を変えて落ちてくる。漣はいつものように、「小そう、細こう」と口の中で唱えながら、両隣の家の前、一尺を越えたところまで掃いていく。
斜め向かいの戸が開いて、谷口マダムが箒を持って出てきた。
「おはようございます、谷口さん」
「おはようさん」
谷口マダムは自分の家の前を掃きはじめたが、その目は、漣の箒の跡を追っていた。
「……少しはましにならはったか」
「ほんとですか?」
「ほんの少しや」
漣がうれしそうに笑うと、谷口マダムはふいと顔をそむけて、また箒を動かした。それから、手を止めずに言った。
「お客さん、入ってるん?」
「いえ、まだです」
「昨日は?」
「昨日も、まだでした」
谷口マダムの箒が止まった。ペールグリーンの壁の、ひらがなの『かもがわ美容院』を見上げる。
「こないだの、制服の子。あれで何人目やったっけ」
「二人目です」
「看板出して、ふた月とちょっとで、二人」
「はい」
漣はにこにこしている。谷口マダムは、長い息をひとつ吐いた。
「言うとくけど、心配なんてしてへんで」
「はい」
「ほんまに、してへんって」
「はい。ありがとうございます」
「話が通じひんわ」
谷口マダムは、ちりとりの落ち葉を袋にあけると、ぱたぱたと戸の中へ入っていった。戸が閉まる前に、一度だけ、こちらを振り返った。
朝食のあと、漣が珈琲の支度をしようとすると、水のボトルが空になっていた。
「あ……」
「なんや、切らしたんか」
「すみません。昨日、汲みに行くのを忘れてました」
「ほな、今朝の珈琲はお預けやな。開店までに汲んできてくれるか」
「はい!」

漣はリュックに空のボトルを詰めると、寺町通へ出た。通勤姿の人々がちらほらと通りを歩いてるくらいでまだ静かな時間帯を北へと向かう。丸太町通を越えて、京都御苑沿いを歩き、梨木神社の境内へ、手水舎には、先客がいた。
蛇口の下の石に、小ぶりのポリタンクが置かれている。背の高い、痩せた男性が、水の満ちていくのをじっと見ていた。
コポ、コポ、と小さな音が、朝の境内に広がる。
漣はボトルを抱えて、少し離れて待った。先に水を汲んでいる男性の後頭部をなんとなく見ると、髪が襟にかかって、外へはねていた。耳のうしろも、ずいぶん伸びている。
──切ってから、半年は経っているかな……。
漣がじっと見ていると、男性が気配に気づいて振り向いた。
「おはようございます……あ」
男性は漣の顔を見て、
「おじいさんの、珈琲の」
「え?」
「春に、ここで会うたでしょう。おじいさんの珈琲の水を汲みに来た、て言うてはった」
漣は首を傾げた。春。ここで。おじいさんの、珈琲の水。
「……あ。ポリタンクの」
「そう、ポリタンクの」
男性は短く笑った。
「お店の珈琲、今もこのお水なんですか?」
「毎日です。店の休みの日以外は」
「ぼくは、数日に一度です。昨日は忘れてしまって」
ポリタンクがいっぱいになって、男性がキャップを締める。漣はその頭を、もう一度見た。それから、リュックのポケットから、カードを一枚取り出した。
「あの、この度、かもがわ美容院をはじめました。今のところ、お客さんは二人だけですが、よかったら、来てください」
両手でカードを差し出して、頭を下げる。
男性はカードを受け取ると、しばらく眺めていた。
「かもがわ美容院。ひらがななんや」
「はい」
「鴨川理容院の、隣?」
「隣というか、同じお店の中です。祖父が理容院で、ぼくが美容院です」
「へえ。おもしろいことしてはる」
そう言って、微笑んだ男性はカードをスウェットのポケットにしまうと、料金箱に小銭を入れて、ポリタンクを自転車のカゴに載せた。
「ほな」
と会釈して、自転車をこぎ出していった。
「はい。ほな」
と微笑みながら漣はつぶやくと、自分のボトルを石の上に置いて、蛇口をひねった。

漣が戻ると、店のサインポールはもう回っていた。ドアを開けると、バーバーチェアに客が一人、座っている。濃紺の作務衣の背中が見えた。
「おお、ええとこに帰ってきた。漣、蒸しタオル、用意してくれるか」
「はい」
漣はリュックを下ろして、蒸し器のほうへ向かった。タオルを取り出しながら、ふと鏡のほうを見る。
鏡の中に、三十代くらいの男性の顔があった。落ち着いた目。きれいに剃り上げた頭。濃紺の、作務衣。
漣の手が、止まった。
「……白湯の」
鏡の中の男性が、ふっと目を細めた。
「覚えててくれはりましたか」
「はい。大徳寺の、お庭の」
「この前すれ違うたときは、首傾げてたくせに」
トウゴローが、クロスを広げながら言った。
「えっ、すれ違いましたか?」
「すれ違うとったわ。店の前で」
間髪入れずに、トウゴローが言うと、男性が、声を出して笑った。
漣は蒸しタオルの温度を手のひらで確かめて、トウゴローに渡した。トウゴローがチェアを後ろへ倒し、タオルを男性の顔にふわりとのせる。
タオルの下から、くぐもった声がした。
「あれから、一滴は、はじまりましたか?」
漣は、少し考えた。
「はい。お客さんが、二人です」
タオルが、小さく揺れた。男性が笑っている。
「二滴ですな」
男性が言うと、
「ふた月かけて二滴や。干上がってまうわ」
トウゴローが、シェービングブラシで泡を立てながら言った。
「トウゴローさん。二滴あったら、もう水たまりに向かってはります」
「さすがお坊さんや。ものは言いようやな」
トウゴローがタオルを外す。泡を、頬から顎へ、ていねいにのせていく。
「漣さんは、剃刀は使わはらへんのですか」
男性が、目を閉じたまま聞いた。
「ぼくは美容師なので、剃刀は持てないんです」
「顔に剃刀をあてられるんは、理容師だけや」
トウゴローが言って、剃刀を手に取った。
トウゴローの左手の指が、男性のこめかみの皮膚を、そっと引いた。
剃刀が、頬にあてられる。刃が、すっと下りていく。泡と一緒に、何かが拭われていくように、肌があらわれる。頬から顎の線へ移るとき、トウゴローの手首がわずかに返った。刃の角度が変わる。音も、変わった。
漣は、蒸し器の前に立ったまま、眺めていた。何回見ても、見入ってしまう手捌き。頬、顎、喉もと。トウゴローの指は、そのたびに置き場所を変え、皮膚をほんの少しだけ引いて、刃の通る道をつくっていた。刃は一度も迷わない。同じところを二度通らない。
店の中では、剃刀の音だけが、ときどき、かすかに鳴った。

「やっぱり、ええ気持ちですわ。おおきに」
冷たいタオルで顔を拭われて、男性が言った。
「なんも、おおきに」
チェアが起こされる。男性は鏡の中の自分を見て、顎に手をやった。それから、鏡越しに漣を見た。
「漣さん。顔が、ぼうっとしてはりますよ」
「え?」
「ようぼうっとしとるんですわ」
トウゴローが、剃刀を拭きながら言った。
「……はい」
漣は、素直に頷いた。
男性は代金を払うと、戸口で振り返った。
「ほな、また。……漣さんも、おきばりやす」
「はい。おきばりやす」
男性はしっかりとした足取りで、通りを歩いていった。
漣はシェービングボウルとブラシを洗い場へ運んだ。泡を流しながら、手が、また止まっている。
「なんや。まだぼうっとしとるんか」
トウゴローが、蒸し器の水を替えながら言った。
「……音が、きれいでした」
「音?」
「はい。剃刀の音です。ほっぺたと、顎のところで、違う音がしてました」
トウゴローは、何も言わなかった。蒸し器の蓋を閉める音だけがした。
「……アホなこと言うてんと、はよ洗てしまい」
「はい」
漣は、ブラシの泡を、ていねいに流した。
その日も、かもがわ美容院の椅子は空いたままだった。

漣はトウゴローの客にクロスを掛け、蒸しタオルを用意し、切った髪を掃いた。タオルを蒸すたびに、蒸し器の前で手が少し止まって、そのたびにトウゴローに呼ばれた。夕方、西日が店の床に長く伸びはじめたころ、ドアがカランと鳴った。

「こんばんは……あ、まだ大丈夫ですか」
背の高い、痩せた男性が立っていた。黒いスウェット。襟足の髪が、外へはねている。
漣は、ぱっと顔を上げた。
「ポリタンクの!」
「ポリタンクの、です」
男性は笑って、ポケットから朝のカードを取り出した。
「店閉めてから来ました。伸ばしっぱなしは、さすがに食べもん商売にはようないさかい」
「はい、こちらへどうぞ」
漣は男性をもう一つのチェアへ案内した。トウゴローがカウンターの奥から、ちらりとこちらを見た。
クロスを掛けて、漣は鏡越しに男性と向き合った。
「今日は、どうされますか?」
「短うしてください。全体に」
「短くしたい理由を、聞いてもいいですか?」
「理由?」
男性が、鏡の中で目を丸くした。
「はい。聞くことにしてるんです」
「理由……伸びて、邪魔やから、ですけど」
漣は、こくりと頷いた。
「それは、いい理由です」
「……そうなんや」
男性は、どこか可笑しそうに鏡の中の漣を見ていた。
漣は男性の髪に、指をそっと通した。毛先は乾いて、手のひらに少しざらつく。顔を近づけると、ふわりと、香ばしい匂いがした。
「髪から、珈琲の匂いがします。深く煎った豆の」
「わかります? 焙煎の煙、毎日浴びてるから」
「はい。たぶん、苦めの」
「……うちの看板の豆、深煎りです」
男性が、鏡越しにまじまじと漣を見た。

「では、はじめます」
耳のうしろの髪を持ち上げたところで、漣の手が止まった。
「……白髪、ありますね。少しだけ」
「そら、ありますよ。もう四十過ぎてますさかい」
「え」
漣の鋏が、宙で止まったままになった。
「同じくらいかと、思ってました」
「よう言われます」
男性は、鏡の中で笑った。それから、鏡に映る漣の頭のほうへ、ちらりと目をやった。
「漣さんは、春に会うたときと、おんなじ頭してはりますね」
「はい。毎朝、セットしてます」
「そうか。……変わらんのは、ええことや。変わるより、よっぽど難しいさかい」
漣は少し首を傾げて、それから、また鋏を動かしはじめた。
店の空気が変わる。鋏の音が、規則正しく続く。漣は何も言わない。
男性も、何も言わなかった。しばらくすると、男性の頭が、こくり、と小さく傾いた。
漣は、その頭の傾きに合わせて、手の位置を変えた。鋏の音が、少しだけ小さくなった。
カウンターの向こうで、トウゴローが新聞をめくる音がした。
「終わりました」
肩にそっと手を置かれて、男性がはっと顔を上げた。
「……寝てた」
「はい。よく寝てました」
鏡の中の自分を見て、男性はしばらく黙っていた。それから、首のうしろに手をやった。
「うわ、首が涼しい」
「乾いていたので、毛先を少し多めに切りました。洗ったあと、タオルでよく拭いてあげてください」
「拭いてあげて、て」
男性は、また可笑しそうに笑った。
会計を済ませると、男性はスウェットのポケットから、小さな紙袋を取り出した。
「これ、うちの豆です。カードもろたお返しに。あの水で、淹れてみてください」
「いいんですか?」
「どうぞ。今度、店にも来てください。御所の東の、本屋さんの近くです」
「あの、お名前は」
「柿谷と申します。店はそのままや、柿谷珈琲。……ひらがなやないけど」
男性は笑って、店を出ていった。
表の板を閉店の側に返して戻ってくると、トウゴローがカウンターで、紙袋の口を開けて匂いをかいでいた。
「三人目やな」
「三滴目です」
「なんやそれ」
「朝のお坊さんが、言ってました」
「……ああ」
トウゴローは紙袋の口を、くるくると折りたたんだ。
「明日の朝は、この珈琲で淹れてくれるか。汲んできた水でな」
「はい!」
カウンターの上で、染井の水のボトルと、珈琲豆の袋が、並んでいた。

第十一話 了
※本作はフィクションです。登場人物・店舗名は架空のものであり、実在の人物・団体とは関係ありません。物語の舞台となる地名・寺社等は実在するものもありますが、描写には作者による脚色が含まれます。
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本作品の無断転載・複製・二次利用(画像・朗読・AI学習等を含む)を禁じます。
👉 次回|第12話をお楽しみに
|第1話「桜の花びらと門掃き」
|第2話「一滴からはじめれば」
|第3話「箒のリズム」
|第4話「トウゴローさん、と呼ぶ」
|第5話「半歩、前に」
|第6話「夏のはじまりの日に」
|第7話「サルスベリの花の下で」
|第8話「鴨川を歩く」
|第9話「燻し銀と柔和」
|第10話「髪留めとお香の香り」
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📖 この物語に出てきた言葉
▶寺町通(てらまちどおり) 京都御苑の東側を南北に通る道。豊臣秀吉が京の寺をこの通り沿いに集めたことが名の由来。御所東のあたりには、梨木神社のほか、古書店や画廊、老舗が並ぶ。
▶作務衣(さむえ) 禅寺の僧が、掃除や畑仕事などの「作務(さむ)」をするときに着る衣。打ち合わせの上衣と、裾をすぼめた下衣からなる。
▶顔剃り(かおそり) 蒸しタオルで肌をやわらげてから、剃刀で顔の髭や産毛をあたる施術。剃刀を使う顔剃りは、原則として理容師の仕事とされる。
▶深煎り(ふかいり) 珈琲豆を長めに焙煎し、色濃く仕上げること。苦みとコクが立ち、酸味はおだやかになる。
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📚 物語と響き合う、御所東の朝


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